スペインでiphoneを盗まれたときの手続きについて
わたしは、以前の記事に書いたように、スペインのバルセロナの地下鉄でiPhoneを掏られました。なにか被害に合うと精神的にショックです。スペインに行く人だけでなく、海外旅行に出かける人にこのようなショックを受けてもらいたくないので、盗まれた時の状況と、そのあとの手続きについて参考になるようまとめてみます。
盗まれた状況
地下鉄のサグラダファミリア駅からサンツ駅の間で携帯を盗まれました。そのときは、バルセロナの独立デモが終わったときで、乗車人数の制限がかかるほどの多くの人が電車に乗ろうとしてました。当然、満員電車。自分でも、気をつけようと思ってました。携帯(iphone5c)は、自分の右ポケットに、財布はバックにひもで括り付けてました。そして、ドア付近に立ってました。乗車駅から降車駅まで、3駅くらいだったと思います。その間、人が乗り降りし、自分もそのたびに押されたりして電車内を動いてました。降車駅のサンツ駅に着き、ドアから出る際、右ポケットに手を入れてみるとiphoneがないことに気づきました。ものの10分。盗られた瞬間などまったくわからなかったです。
同行者の坂爪さんは、ポケットに手を入れていたため、盗まれませんでした。ここらへんの注意深さが旅人レベルが違うなぁと思い知らされました。
まず携帯の回線を止める。
iphoneでは、パスワードを設定していましたが悪用されたら大変なことになってしまうので、携帯の回線を止めようとしました。ホテルには国際電話ができる電話機が置いてありましたが使い方がよくわからかったので、ホテルのパソコンで自分のFacebookにログインし、友達に実家の電話番号を教え、家族に電話してもらいました。(ドコモの場合携帯を止めるのは、その家族でないといけないそう)その当時、日本は朝5時でしたが、急ぐ必要があったのです。
以下の記事を読んでください。
100万近いお金を後日請求されたらたまったもんじゃありません。しかも、この支払は保険適用外。保険に入っていたら、iphoneを購入するお金は返ってきますが、100万円は自分で支払う。ほんとに絶望です。
もし盗まれたら一刻も早く、電話回線を止めましょう。
警察に行き、被害届をだす。
海外旅行保険に適用されるには、現地の警察の証明が必要です。いわゆる、被害届。後日、スペインの警察に行きました。
警察に着き、英語で「地下鉄で携帯を盗まれました」と身振り手振りで説明しました。警察官は、私の英語を理解したようですが、わたしは彼の英語が速くて、理解できませんでした。たぶんこいつわかってないなーーーと思った警察官は、「ここの警察署に行って」と言いました。よくわかんないまま、歩いて15分くらいの警察署に行くと、translator(英語がわかる翻訳者のやさしいおばちゃん)がいて、一緒に調書を作ってくれました。ここは大文字で書きなさいとか、ここは日本の住所を書きなさいとか、いろいろ教えてくれました。そこの警察署は、携帯が盗まれた人であふれかえっていました。だれもが、一回経験するもんなんだなと安心しました。10分くらいで作り終わりました。けっこう速かった。。。。
帰国、そして保険請求へ。
帰国したら、保険会社に連絡をとりしました。後日、保険会社から申請書が送られ、それと一緒に被害届、パスポートのコピーを返送したところ保険が適用されました。iphone5c(32G)はもう売ってないので、それの後継機である、iphone6の価格を振り込みますと言われた時はほっとしました。
バルセロナで現地の日本人と話す機会があり、盗難について聞いてみると5人中4人が財布、携帯を盗まれたといってました。彼らの友達も被害にあっており、ほとんどの人が盗難の被害にあっているそうです。ポケットに手を入れてても、ぶつかってきてその隙に携帯を盗まれたり、二人はおとり役で一人が盗むという、犯行グループもいるそうです。マヨルカ島で出会ったスペイン人のダビットも、バルセロナの地下鉄はスリが多くて危ないと言ってました。
道を尋ねたら丁寧に教えてくれる人も多いですが、スリなどの悪い人も少しいます。旅行中は、注意して携帯を盗まれないようにしてください。
被害に合ったとしても、平常心を保つことが大切。慌てないようにしましょう。
0に近づくほど豊かになる。~ スペイン旅行記~
下の記事の続きです。
9/14 afternoon~ 9/17 マヨルカ島の青年ダビットとの出会い
9/14:マドリードから飛行機で約2時間、私たちはマヨルカ島に降り立った。マヨルカ島はバルセロナやマドリードの空気と一味違った。常夏。空港の外に出ると、雲も空も夏の雰囲気が漂っていた。坂爪さんも「ここは沖縄っぽいな!!」と言っていた。
私たちはホテルに向かうため、バスに乗り途中の広場で降りた。坂爪さんのiPhoneは歩いてあと15分くらいで目的地へ到着するといっていた。しかし、ホテルらしい建物が見つからない...地図に表示されている場所をぐるぐる周ってもそれらしい建物はなかった。駆けずりまわってホテルを探していると、「ひろば」とかかれた日本レストランを運よく見つけた。わたしはすぐに、お店の中に入り、そこにいたダビットという青年に話しかけた。彼は、いろいろ調べてくれて、ホテルの場所がこの周辺ではなく歩いて20分のところにあると教えてくれた。しかも、そこまで案内もしてくれるという。彼の案内のおかげで私たちはホテルに無事ホテルに着けた。
マヨルカ島に着く前、わたしたちは2~3日が別行動し、バルセロナで落ち合おうと話し合っていたのでわたしは、食事がすむやいなやダビットに泊めてくれない?といった。わたしは、明日の宿も決まってなかったしお金も少なく必死だった。玉砕覚悟。必死な気持ちの裏で別に断られても仕方ないと思っていた。
今日初めて会って2時間しかたってないし、しかも外国人だし、よくわからない!からだ。坂爪さんにも「かずし、いきなりすぎだ!!笑」と言われた。
しかし、ダビットからは「うん、いいよ。何日??」と予想外の答えが。
「まじかダビット!!ありがとう!!」と言いつつも、冷静になって、「お母さんに言わなくて大丈夫??」というと
「彼女は彼女の人生があるし大丈夫!!それに興味深いし!!」
言ってくれたおかげで、そのときから気持ちが振り切れた気がした。
坂爪さんは、「かずしの旅が始まるな!!」と言ってくれた。
その日の夜、緊張と興奮であまり眠れなかったのを覚えている。坂爪さんと無事バルセロナで会えるのだろうか。いったいマヨルカ島ではどうなっちゃうのか...
9/15:坂爪さんと別れ、ダビットと無事会った。ぼくらは島の中心部に行きカテドラル(お城)を観て、おいしいご飯を食べた。
9/16:出かけようとしたらダビットのお母さんが車でいろいろ連れてってくれるという。まじか...よくわかんない日本人にそこまでするのか...とびっくりした。もう、甘えてしまおう!!すべてを受け取ろう!と決意して、わたしはその日ダビットと彼のお母さんに甘えまくった。わたしたちは市場、塩の工場、2つのビーチに行った。わたしは愛されてるなぁとつくづく感じた。
透明で時には青く、ときには緑色にみえる海、きめ細かい砂、なにもかもが初めてだった。
9/17朝: バルセロナに戻る飛行機に乗るため、バス停に向かおうとしたら、ダビットのお母さんがちょうど起きてきた。起きたばっかりなのに、空港に送っていく、という。まじかーーー起きたばっかりなのに..ただただ、感謝。お母さんは、車だと早くつきすぎてしまう、という理由で景色を一望できるお城に向かった。
この日も快晴。空と海の青さと、雲と船の白さが綺麗だった。。。
そして空港へ。ダビットとはまたマヨルカ島か、日本で会おう!とお母さんには、たどたどしいスペイン語で、お礼を言った。最後に握手。最高の3日間だった。
9/21:モスクワ
バルセロナでは、坂爪さんを訪ねてきたRさんと食事をしたり、坂爪さんが呼ばれたイベントに参加したりして、のびのびと過ごした。最後の地、ロシアのモスクワに向かった。
モスクワに到着し、我々は赤の広場に向かった。日陰にいると寒いが、日が照っていたので歩くと暑い。モスクワの雰囲気は、厳しさがただよっていた。
ロシア語の赤は美しいという意味も含んでいるらしい。赤の広場は、とても広く、臙脂色の建物が多い。モスクワの寒さは厳しすぎるだからこそ、赤を美しいとか、見てあったかい色の臙脂色の建物を多くしたのではないか。。。そう考えると、ロシア人がかわいく思えた。
驚きだったのは、美人がとても多かったことだ。なんでこんな人が店員をしているのだろう。。日本でモデルやればいいのに。とか、この人たちは同じ人間なのか?と思いさえもした。
9/22:帰国 旅行を終えて
帰ってきた。美しい景色を見ることや、おいしい料理を食べることでもなく、人の優しさが一番残っている。どこにいっても結局は、人なんじゃないかって思う。
— かずし (@cosmo_kn) 2015, 9月 22
1:当初の目的は、スペインでサッカーを観る ということだったけど、一番印象に残っているのはマヨルカ島でのダビットやお母さんからのやさしさ。行くときは、こんなありがたい経験することとは思ってもいなかった。このやさしさをほかの誰かに渡していきたい。
2:所持金が0になってから豊かな時を過ごせたのが大きかった。なにが起こっても、成り行きに任せればなんとかなるもんだ、という大きな自信を得られたと思う。
次に海外に行くとしたらアジア。クアラルンプール、台湾、タイに行ってみたい。
2日でiPhoneとお金がなくなる ~スペイン旅行記~
9月10日から22日までいばやの坂爪圭吾さんとスペインに行ってきた。
きっかけは、わたしからスペインに行きませんか?と坂爪さんに声をかけたことから始まる。
坂爪さんを誘った理由としては、彼が暇だったから。彼が私の予定に合わせてくれるため、誘いやすかったからだ。
私たちは9/10の10:00に成田空港で待ち合わせをし、モスクワ経由でスペインのバルセロナに11日の16:00ごろ到着した。
9/10~9/12: 2日で不安に落とされる
2日で不安になってしまった。その原因が3つある。
トラブルと自分のミスが続いた。iPhoneを盗まれても、ホテルにPCはあったし連絡はとれる。予想外の出費は痛いけれども、マドリードでサッカーを観れるからこれもしょうがない出費だ。と2つめまでは耐えられていたと思う。しかし、マドリードに着き、やっとホテルを見つけ、これで今日の宿は大丈夫、と思った矢先に
「明日の予約だよ」と言われたのは、辛かった。この時、うわー、日本に帰りてーっと思った。明らかに自分のミスだったから、坂爪さんに迷惑をかけて申し訳ない、なんて自分はダメなんだ...とかいろいろなことが頭を駆け巡っていた。
結果的に、その日はホテルが見つかり、サッカーをみることができた。前半は、なんて退屈な試合なんだ...こんなのをみるために日本から来たのか...と思ったが、後半ネイマールとメッシのゴールを目にすることができた。いいものを見た気がする。少し立ち直れた気がした。
(コーナーキック。ボールをもつ緑のスパイクがネイマール、その右がメッシ)
9/13 morning: 不安が不安を呼ぶ。そんな中、奇跡が舞い込む
ネイマールとメッシのゴールはみれて目的は達成できたものの、新たな不安の中にいた。お金がないである。3日目にして、あと9日間をしのぐ宿代くらいしかなかった。予想外の出費と、もともとの滞在資金が少なかったためだ。私は口にはださなかったが、本当にこれからあと9日間どうしよう...と一人で絶望していた。坂爪さんもお金はなかったたが、しかし彼は何度もお金がない、という状況になったことがあったため私よりも平然としていた。(気がする)わたしは、海外でお金がない=たぶん野垂れ死ぬ と考えてしまって、これまで味わったことのない恐怖の中にいた。
私たちは、朝ご飯をカフェで食べながら、(心の中ではまたお金がなくなった...と思いながら)午後の美術館無料開放まで時間をつぶしていた。
私がぼーっと、まじで野宿かー、とか駅なら大丈夫かなーと考えていたころ一通のメールが坂爪さんに届く。
いま、スペインのマヨルカ島にわたしの妹がいます。一ヵ月くらい生活していて、スペイン語も話せないので彼女がストレスを抱えていないか不安です。もしよかったら、航空券はわたしが負担するので妹に会いに行ってくれませんか。
というものだった。私たちは、どこへ行く予定もなく、お金もなかったので次はマヨルカ島に行くことに決まった。
このメールが届いた時、わたしは人生わりとなんとかなるもんなんだ、と悟った。そして、坂爪さんの言う、奇跡は余白に舞い込むは本当だった...とわかった。
9/13 afternon~9/14 mornig: 静かな場所、2つの美術館とレティロ公園
その日の午後、私たちは集合場所を決め、個人で美術館を巡った。まず、最初に向かったのは、ソフィア王妃芸術センターである。ここでは、ピカソ、ダリ、ミロの作品が所蔵されている。
わたしは、絶望から希望の波にさらわれていたので心を落ち着ける場所を求めていた。心を落ち着けるのに美術館は、よい場所だと思う。美術館自体は、静寂に包まれているけど、さまざまな絵画はエネルギーに満ちている。たまに自分が共鳴する作品があるから面白い。ピカソのゲルニカは圧倒的パワーを感じたけど、それよりもわたしはその近くにあった「泣く人」の3作品の1枚がよかった。撮影禁止の絵だったのでおもわずスケッチ。
次に向かったのは、プラド美術館。ここは、世界三大美術館のの一つと言われている。しかし、宗教画ばっかりでわたしにはよくわからなかった。あまりにも絵が多すぎて絵に酔ってしまった。省略。
翌日の9/14日、わたしは起きて坂爪さんからの書置きがあることに気づく。その内容は、やることがあるからちょっと出ます。11時に集合しよう、というものだった。
わたしは、身支度を整え散歩がてらレティロ公園に向かった。レティロ公園は、プラド美術館から徒歩5分ほどの距離にある。朝は、ランニングや犬と散歩している人がいた。
この日は空が澄み渡って、何色もの青に染まっていた。
数分歩いて、カフェでエスプレッソとマフィンを頼んだ。そして、大好きなMr.childrenの曲を数曲聞いて、ぼーっとしていた。
今思えば、この時もとに戻ったのだと思う。たぶん人は、素敵な、そして静かな場所にいて、好きな音楽を聴いたりすれば、落ち着くんだと思う。
このあと、坂爪さんと合流し私たちはマヨルカ島へ向かった。
マヨルカ島でもいろいなことがありました。続きます。
なぜ納得いく記事が書けなかったのか。
この一か月、とりあえず一つの記事はできていました。しかし、自分で読み返してみると、「言いたいことはなんなのか」がうまく伝わってこなかったので渋って今に至ります。その書けなかった原因を自分なりに整理がついたのでまとめます。
まとめると
- 記事にしたかった出来事のインプット量(情報量)が多すぎた。
- 伝えたかったこと(書きたかったこと)がうまくまとまらなかった。
- かっこよく、うまく書こうとしていた。
この3つになります。
1.出来事のインプット量(情報量)が多すぎた
前々から注目していた、婚前道中膝栗毛
のお二人に会ってきた。
約一か月前、彼らは新潟県柏崎にいた。柏崎市で待ち合わせをし、一緒に海岸を歩き、日本海に沈む夕日を見、最後には花火をした。
という豊かな時間を過ごした。
この日はなんだか聞きたいことが多くあって、海岸線を歩いている途中質問をしまくった。例えば、「この旅をしている中で、変わったことと変わらなかったことはなんですか」というふうに。
その答え一つ一つがけっこう深い。帰りの電車の中、後日振り返ったものの、結果的に頭がパンクした。
2.伝えたかったことがうまくまとまらなかった
ブログに書くのは、基本的に事実(出来事)と感じたこと(意見)ということにしている。
婚前道中膝栗毛のお二人の面白さ、日本海の夕日を綺麗さ、花火をするという予想外の出来事すべてを記事にしようとした。結局、だらだら書き連ねたものになってしまった。
3.かっこよく、うまく書こうとしていた
これが一番問題だと思う。しかも、カヤノさんとみのりさんとの1日が相当豊かな時間だったから、なおさら力が入っていた。いろいろな人のブログ、文章を読んでいると自分よりも遥かに良いものを書いているがよくよく考えてみると、その人にとっては、ただ書きたいから書いているだけであって別にかっこよく、うまく書こうとはしていない。伝えたかったことを書いた結果、それが良いものだったというだけだ。他人を評価を気にしすぎていた。べつに書くことは得意ではないので、できるだけ他人の評価を気にしないように、割り切って書いていこうと思う。
婚前道中膝栗毛さんとあってきて
なにがよかったと言えば全部よかった。言語化できないけど、キーワードをあげるとしたらこの3つ。
- ヒデアキはわたしのホーム
- ただ歩くことは、楽しい
- 人と会うのは楽しい
彼らは、岩手県にいるらしい。毎日一歩一歩、歩いている。興味をもったなら会いにいったらいい。百聞は一見にしかず。百考は一行にしかず。
一人っ子同盟 -国境の南、太陽の西から。
自分に大きな影響を与えた本がある。それは、村上春樹の国境の南、太陽の西という本だ。その本がどのように自分に影響を与えたか、と身の上話をする。
自分の境遇と長年の違和感
初めて会って、相手はどういう人かを理解していくうえで、出身や好きな食べ物、趣味などを聞くのはごくごくふつうのことだ。
そのなかで自分には苦手な質問があった。
兄弟はいるの?という質問だ。
正確に言えば、そう質問をされるのは別によかったのだけれど、それに答えた後のひとの反応がなんか嫌だった。
一人っ子です。と答えると、いいなぁとか、大切に育てられたんだねとか、兄弟がいると思ってた、意外、などけっこういらいらする反応がいくつかあった。いらいらはしていたけど本当のところ、なににいらいらしているかはわかっていなかったと。
小学校、中学校時代、友人の多くには年上、年下の兄弟がいた。
小学校~高校前半まで、まだまだこどもなので彼らは頻繁に喧嘩していた。
それが大学生になると彼らの関係は次第に落ち着いてきて、仲良くなってくる。
大学1年生の自分は、友人たちの関係をみて、兄弟っていいもんだなぁ、とつくづく思っていた。(一人っ子<兄弟と思っていた)
そして、なんでこんなに羨ましくなるのかと疑問だった。
国境の南、太陽の西
色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年 が刊行されるころ、世間は村上春樹特集などで話題になっていた。
その年のGWに、栃木に帰省し、母が車の中でこういった。
「テレビでやっていたけど、村上春樹って一人っ子らしいよ。なんかあんたと通じるところがあるのかもねぇ。その一人っ子をテーマにした小説があるらしいよ。けっこう前にでた国境の...なんとかっていう小説」
村上春樹が一人っ子だったのは、すごく驚きだった。
国境の南、太陽の西をすぐに購入し読んでみた。
その最初の数ページが自分にぴったりとあてはまる文章だったので、鳥肌がたったのをいまでも覚えている。
大抵の家には二人か三人のこどもがいた。それが僕の住んでいた世界における平均的なこどもの数だった。少年時代から思春期にかけて持った何人かの友人の顔を浮かべてみてみても、彼らは一人の例外もなく、まるで判をおしたみたいに二人兄弟か、あるいは三人姉妹の一員だった。
僕には兄弟というものがただの一人もいなかった。僕は一人っ子だった。そしてその時代の僕はそのことでずっと引け目のようなものを感じていた。自分はこの世界にあってはいわば特殊な存在なのだ、ほかの人々が当然のこととして持っているものを、僕は持っていないのだ。
子供の頃、僕はこの「一人っ子」という言葉がいやでたまらなかった。その言葉を耳にするたびに、自分には何かが欠けているのだということをあらためて思い知らされることになった。その言葉は僕に向かってまっすぐに指をつきつけていた。お前は不完全なのだぞ、と。
一人っ子が両親にあまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままだというのは、僕が住んでいた世界では揺るぎない定説だった。それは高い山に登れば気圧が下がるとか、雌の牛は多量の乳を出すとかいうのと同じ種類の自然の摂理とみなされていた。だから僕は誰かに兄弟の数を訊かれるのが嫌でたまらなかった。兄弟がいないと聞いただけで人々は反射的にこう思うのだ。こいつは一人っ子だから、両親にあまやかされていて、ひ弱で、恐ろしくわがままな子供に違いない、と。人々のそういったステレオタイプな反応は僕を少なからずうんざりさせ傷つけた。しかし、少年時代の僕を本当にうんざりさせ傷つけたのは、彼らの言っているのがまったくの事実であるという点だった。そのとおり、僕は事実あまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままな少年だったのだ。
確かに、一人っ子です。と答えることでなにか引け目のようなものを感じていたし、一人っ子という言葉自体が嫌だった。自分からみて、僕は事実あまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままな少年だった。というのもぴったり当てはまっていると思う。
これを読んだ後、なにかがカチッとはまるかのように、はっとした。面白いことに、全然ショックではなかった。
兄弟がいるの? という質問がなんか嫌だった理由を100%言語化していたので、長年の解けなかった問題が解けて清々しかった。
あまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままだった という認めたくないけど認めざるを得ない事実をつきつけられた。しかし、いままでのわだかまりがなくなったほうが大きく、爽快感がとてつもなかった。
そして今
今考えると、一人っ子です。と答えたとき、人々の反応が自分にとって嫌な反応で、かつその反応をみて一人っ子=マイナスイメージと自身に刷り込んでしまったのだと思う。
自分の価値観がまだ出来上がってなかったから、大多数の人の反応に流されてしまったと思う。
現在は、一人っ子は半端なく恵まれているなぁとか、運が良かったなぁと思えてる。マイナスイメージは、ほとんどない。
身の上話、一人っ子の境遇はこのへんで。
Don't belive me,just to watch.
SEASIDE RUNNING:走るときに考えること~
どんなに好きなことでも、毎日やり続けてしまうと嫌気が指し、疲れも溜まることがある。
自分は最近の実験(しかも全然進まない)に嫌気がさてしまった。
明日は、午後から来ます。と先生に宣言し、次の日は、走ることにした。
私の住んでいる新潟県新潟市は、日本海に面している。もちろん、自分が住んでいるところから徒歩圏内で海にいくことができる。
私は、シーサイドラインをランニングコースにしている。
初夏のように日差しは強かったが、海から吹く潮風はだいぶ冷たい。
水温はまだ低いと感じた。
2kmほど走ると海に着いた。
海は季節によって色が違い、今日は青!っていより青緑色だった。
潮風がだいぶ強い。海は広い、本当に広い。
走っていると、これからの予定とか、今日は何をたべようとかは全く考えない。
思い浮かぶのは、海がきれいだ。とか、毛虫が道路を横切っている...。とか、
足がきつくなってきた。とか、視覚や触覚といった感覚的なものしかない。
そういうことに没頭している時間は非常に楽しい。
走り終わると、体の疲労感はあるけれども、こころの疲労感はない。
逆にこころは清々しい気分になっていた。
なんだかうまくまとまらなかったが、つまり、
頭では考えられない、感覚的に没頭する時間を持とう!ということ。
Don't believe me, just watch.
メディアを受け取る側から差し出す側へ~
2015年を迎えてなにか新しことをしよう、ブログをやってみよう!!
と決意してから4ヵ月がたってしまった。やっと行動に移せた。
周りの友人たちのほとんどは就職し社会人になり、大学生活とはうって変わって新しい環境で生活している。
自分はというと....大学院生になり、大学生活となんら変化しない生活をおくっている。生活環境も、人間関係もそのまま。
いろいろ飽き飽きしてしまってなにか変わりたいなー、変えたいなーと思ってブログを開設した。
なにかやればなにかが起こる
とりあえずやってみるのが大切で、そのあとは気にしない。
発信し続けることでなにかおこる....はず。
友達の坂爪さんもこういってるし。
ブログ記事にするということは「気持ちをそこに置いてくる」ことだから、周囲のひとたちはあたふたするけど、書き手自身は書き終えた時点で「スッキリ!(よし、次!)」となっている。要するに過去になっている訳で、洞爺湖の温泉が最高にグッドです。 pic.twitter.com/OUFQNCo4cF
— 坂爪圭吾 4/17-24@北海道-金沢 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 19
- 読み手が不快に思うことは記事にしない、爽快感のある記事にする。
- 思っていることをそのまま、素直に書く。
- できるだけ詳細に、わかりやすく書く。
これらを目標に、やっていこうと思う。書きまくります。
Don't believe me, just watch.